大晦日に起きた岡山の男子高校生による母親殺害事件について
- 2017/01/25
- 16:12
あまりにシリアスな話のため、書こうか書くまいかと悩みましたが、あれから一か月近く経過して落ち着いてきたこともあり、少しだけ書こうと思います。
事件の概要としては昨年末の31日の深夜、岡山県の男子高校生(16歳)から母親(44歳)を殺害したと110番通報がありました。
高校生の供述によると深夜に酔って帰宅した母親にバッグを投げつけられるなどしたため、腹を立て金づちで頭部を数回殴り、包丁で腹部・背中を数回刺し、殺害した模様です。
この類の家庭内殺人のニュースは容疑者が精神疾患を抱えている事に起因していたりすることがあります。
しかし、この件が特異なのは母親側の言動や態度に問題の可能性が感じられること、そしてこの母親による幼少期の虐待も囁かれている点です。
こうした事件が起きたとき、容疑者が自己正当化するために被害者の落ち度をねつ造する事もあるので、一概には言い切れないのですが、この家庭での父親の存在が全く語られないとか、17歳の兄が大晦日の深夜に外出中で不在だったとか、その辺から荒れた家庭を想起してしまうこともあり、個人的にはどうも高校生の証言に真実味のようなものも感じます。
一昔前であれば親に反抗する子供というのはよくある話でした。
が、80年代に起きた浪人生が両親を殺害した金属バット事件あたりから少し風向きが変わってきた感じがあります。
ご存知の方もみえるかと思いますが、1995年まで日本でも尊属殺人罪というものがありました。
尊属殺人とは祖父母・両親・おじ・おばなど親等上、父母と同列以上にある血族(尊属)を殺害することで、通常の殺人罪よりも重く処罰されました。
つまり親が子供を殺すより、子どもが親を殺すほうが罪が重い、という事ですね。
これについては色々な議論がありましたが、ずいぶん長く法律として存在し続けた最も大きな理由として親への性善説が根拠となります。
つまり「積極的に子供を害する悪い親なんているはずない」という前提があったわけですね。
その後、法律上の平等性の観点や様々な事件(前述の金属バット事件もそうですね)もあり、世論とかみ合わなくなってきた事もあって、正式に廃止される流れとなりました。
子どもに対して厳しい、厳しすぎる親というのは悪い親だ、という方向になってきたとも言えると思います。
この辺の線引きはいわゆるしつけと虐待で評価が分かれるところですが、マスコミで報道される事件は大抵子供の側が亡くなってることもあり、虐待と断罪される事が圧倒的に増えました。
まあ、今回の岡山の事件とは全く別の次元なので、この場合割愛します。
ちょっと違う話なのですが、ここ最近の比較的新しい単語として「毒親」という言葉があります。
ウィキから引用すると、
「過干渉などによる児童虐待によって、一種の毒のような影響を子供に与える親のこと。母の場合は毒母(どくはは、どくぼ)、毒ママ(どくママ)[1]と称される。また、父の場合は毒父(どくちち、どくふ)[2]、毒パパ(どくパパ)と称される。毒母の別名として、モラ母(モラはは)[3]と称されることもある。」
という定義がされています。
まあ、過干渉に限らず、単純に「子供に悪影響を及ぼす親」というのが一番分かりやすいんじゃないでしょうか。
親子の関係というのは多分昔からずっと複雑で、時に辛辣で、残酷で、それがずっと見過ごされてきたと思うんですよ。
親の恐怖支配や理不尽な躾や自分勝手な生き方に反発する子供って日本文学の中でも大きなウェイトを占める部分ですよね。
その恐怖や理不尽さに耐えたり、克服することが人としての成長とか通過儀礼のように言われたりしてきました。
そうじゃないんだ、と「母がしんどい」「母が重くてたまらない」のように毒親体験を本に綴る人が増えてきたのも新しい親子関係を模索する時代のトレンドなんじゃないかって思うわけです。
と、同時に「ペコロスの母に会いにいく」や「かあちゃんといっしょ」のように老親との関係を温かく語る人もやっぱりいます。
ふと思い出すのは以前も書きましたが、尾崎豊だって最後に出したオリジナルアルバムのラストの曲は亡母へ捧げる優しい穏やかな歌でした。私好きなんですよ。
いずれにしたって答えなんかないことは確かなんですね。
そして、誰にも一言でなんか言い切れないんです。
それは特定の親子を指して良い親だ、悪い親だ、という事でなく、子どもは親の様々な面を見るわけですね。
一般的に良い親だと語られる人も子供から見れば厳しすぎるとか人にはいい風に見せたがるとか、そんな風に言われることもあるでしょう。
逆もまたしかりだと思います。
いずれにしてもある種の愛憎半ばする思いが交錯しているというのが親子愛の実情というものじゃないかって思うんですよ。
白か黒かどっちか、でなくどちらが多いかの比重の差はあれどまだら模様じゃないかって。
だからこの岡山の高校生の事件も、私の勝手な想像なんですけれど、いつかこの高校生の子も母親の事を今と違う感覚で思い出すんじゃないかって思うんですよ。
幼いころに虐待を受けて恨んでた事だけでなく、ほんのちょっとした事で優しくしてくれたことや笑ってくれた時の記憶を。
そういう中で私のように近親相姦、とりわけ母子相姦専門でブログをやってるような人間も一概には言えない複雑な関係が親子なんだって観点を大事にしたいなと思ってます。
ある種のファンタジーとして「母親とセクフレになった。望むままに毎日セックスし放題で幸せです」なんてエロ小話も、まあ、許容はしますが、親子の問題、関係とはそんなに簡単で軽いもんじゃないんだって事も思いつつ、現実の親子問題の悲しさや苛烈さや残酷さも思いを馳せつつ、書いていきたいと思います。
禁母夢(何故か記名した)
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事件の概要としては昨年末の31日の深夜、岡山県の男子高校生(16歳)から母親(44歳)を殺害したと110番通報がありました。
高校生の供述によると深夜に酔って帰宅した母親にバッグを投げつけられるなどしたため、腹を立て金づちで頭部を数回殴り、包丁で腹部・背中を数回刺し、殺害した模様です。
この類の家庭内殺人のニュースは容疑者が精神疾患を抱えている事に起因していたりすることがあります。
しかし、この件が特異なのは母親側の言動や態度に問題の可能性が感じられること、そしてこの母親による幼少期の虐待も囁かれている点です。
こうした事件が起きたとき、容疑者が自己正当化するために被害者の落ち度をねつ造する事もあるので、一概には言い切れないのですが、この家庭での父親の存在が全く語られないとか、17歳の兄が大晦日の深夜に外出中で不在だったとか、その辺から荒れた家庭を想起してしまうこともあり、個人的にはどうも高校生の証言に真実味のようなものも感じます。
一昔前であれば親に反抗する子供というのはよくある話でした。
が、80年代に起きた浪人生が両親を殺害した金属バット事件あたりから少し風向きが変わってきた感じがあります。
ご存知の方もみえるかと思いますが、1995年まで日本でも尊属殺人罪というものがありました。
尊属殺人とは祖父母・両親・おじ・おばなど親等上、父母と同列以上にある血族(尊属)を殺害することで、通常の殺人罪よりも重く処罰されました。
つまり親が子供を殺すより、子どもが親を殺すほうが罪が重い、という事ですね。
これについては色々な議論がありましたが、ずいぶん長く法律として存在し続けた最も大きな理由として親への性善説が根拠となります。
つまり「積極的に子供を害する悪い親なんているはずない」という前提があったわけですね。
その後、法律上の平等性の観点や様々な事件(前述の金属バット事件もそうですね)もあり、世論とかみ合わなくなってきた事もあって、正式に廃止される流れとなりました。
子どもに対して厳しい、厳しすぎる親というのは悪い親だ、という方向になってきたとも言えると思います。
この辺の線引きはいわゆるしつけと虐待で評価が分かれるところですが、マスコミで報道される事件は大抵子供の側が亡くなってることもあり、虐待と断罪される事が圧倒的に増えました。
まあ、今回の岡山の事件とは全く別の次元なので、この場合割愛します。
ちょっと違う話なのですが、ここ最近の比較的新しい単語として「毒親」という言葉があります。
ウィキから引用すると、
「過干渉などによる児童虐待によって、一種の毒のような影響を子供に与える親のこと。母の場合は毒母(どくはは、どくぼ)、毒ママ(どくママ)[1]と称される。また、父の場合は毒父(どくちち、どくふ)[2]、毒パパ(どくパパ)と称される。毒母の別名として、モラ母(モラはは)[3]と称されることもある。」
という定義がされています。
まあ、過干渉に限らず、単純に「子供に悪影響を及ぼす親」というのが一番分かりやすいんじゃないでしょうか。
親子の関係というのは多分昔からずっと複雑で、時に辛辣で、残酷で、それがずっと見過ごされてきたと思うんですよ。
親の恐怖支配や理不尽な躾や自分勝手な生き方に反発する子供って日本文学の中でも大きなウェイトを占める部分ですよね。
その恐怖や理不尽さに耐えたり、克服することが人としての成長とか通過儀礼のように言われたりしてきました。
そうじゃないんだ、と「母がしんどい」「母が重くてたまらない」のように毒親体験を本に綴る人が増えてきたのも新しい親子関係を模索する時代のトレンドなんじゃないかって思うわけです。
と、同時に「ペコロスの母に会いにいく」や「かあちゃんといっしょ」のように老親との関係を温かく語る人もやっぱりいます。
ふと思い出すのは以前も書きましたが、尾崎豊だって最後に出したオリジナルアルバムのラストの曲は亡母へ捧げる優しい穏やかな歌でした。私好きなんですよ。
いずれにしたって答えなんかないことは確かなんですね。
そして、誰にも一言でなんか言い切れないんです。
それは特定の親子を指して良い親だ、悪い親だ、という事でなく、子どもは親の様々な面を見るわけですね。
一般的に良い親だと語られる人も子供から見れば厳しすぎるとか人にはいい風に見せたがるとか、そんな風に言われることもあるでしょう。
逆もまたしかりだと思います。
いずれにしてもある種の愛憎半ばする思いが交錯しているというのが親子愛の実情というものじゃないかって思うんですよ。
白か黒かどっちか、でなくどちらが多いかの比重の差はあれどまだら模様じゃないかって。
だからこの岡山の高校生の事件も、私の勝手な想像なんですけれど、いつかこの高校生の子も母親の事を今と違う感覚で思い出すんじゃないかって思うんですよ。
幼いころに虐待を受けて恨んでた事だけでなく、ほんのちょっとした事で優しくしてくれたことや笑ってくれた時の記憶を。
そういう中で私のように近親相姦、とりわけ母子相姦専門でブログをやってるような人間も一概には言えない複雑な関係が親子なんだって観点を大事にしたいなと思ってます。
ある種のファンタジーとして「母親とセクフレになった。望むままに毎日セックスし放題で幸せです」なんてエロ小話も、まあ、許容はしますが、親子の問題、関係とはそんなに簡単で軽いもんじゃないんだって事も思いつつ、現実の親子問題の悲しさや苛烈さや残酷さも思いを馳せつつ、書いていきたいと思います。
禁母夢(何故か記名した)
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