短編「20世紀の終わり際」
- 2014/01/03
- 23:52
短編「20世紀の終わり際」です。
未完のまま掲載して、続きを書き忘れてしまったものです。
今更完成させるのも厳しいのですが、お蔵ももったいないので載せました。
宜しければどうぞ。
未完のまま掲載して、続きを書き忘れてしまったものです。
今更完成させるのも厳しいのですが、お蔵ももったいないので載せました。
宜しければどうぞ。
「20世紀の終わり際」
今はアパートと新興住宅地が立ち並んでいるが、実家の裏手は僕が子供の頃は何もなかった。
住民はみんな昔から住んでいる人ばかりの地域だったので、家の近所は畑や水田、何も使われていない空き地が広がっており僕が小さな頃は本当に何もなかった。
夏になると夏草が伸びてきて裏の塀にかかってきたりしたが、地主が時折草刈りをしていたらしく、荒れっぱなしになることもなかった。
昔は実家がその空き地に小さな畑のため土地を借りていたため、僕が小さな頃は母親とよくその家の裏の空き地で趣味程度の畑仕事の手伝いをしたりした。
家の一番裏側が僕の部屋だったため、学生時代は部屋の窓からずっと窓からその畑が見えていた。
吹きっ晒しの土地だったからか、隙間風なのか、冬になるとひどく冷える部屋だった。
冬になると畑には霜が降りるので、早朝など窓からの景色は真っ白になり余計に寒々しく思えた。
特に冷え込んだ朝は部屋が凍りつくように布団に入っていても寒いくらいで、毎朝自分が起きる何十分前に入るよう灯油ファンヒーターのタイマーを入れておかないととても起きれなかった。
高校時代の事だったが、僕が当時通っていた電車が大雪で通行不能になった事があった。
これ幸いと思い、寒い駅で待つ必要はないと思ってそのまま踵を返して家に帰った。
その頃はとにかく学校に行きたくなくて仕方なかったので、そうした何かと理由を見つけたは休む事が多かった。
当時実家は同居していた父の母(つまり僕から見た祖母だ)が入院していた。
結果的にそのまま亡くなってしまったため退院する事は叶わなかったが、当時はまだ比較的元気だった。
祖母とは嫁姑で母親と折り合いが悪かったが、現実的に母が世話するしかないため毎日のように病院に行っていた。
その入院していた病院は親切なところでよほど問題行動がない限り看護婦(当時はこの表現がまだ許された)さんがやってくれたため、家族がしなければいけないのは定期的に家から持って行っているタオルや着替えの洗濯くらいだった。
だから僕が帰ってきても母は既に病院に行った後だった。
朝ギリギリまで寝ていたから朝ごはんでも作ってもらおうと考えていたが、すぐに戻ってくるだろうと思った。
その頃…いや、ちょっと前くらいからだったかもしれない。
僕にとって母親は単なる母親ではなくなっていた。
異性として意識していた、というほどではない。
より正確に言えば母親であると同時に異性である、ということを変に意識するようになっていた。
ありていに言えば僕は母親に自分を男にして欲しい、と思っていた。
それは単なる性への好奇心、というだけでなくただの異性と違って気安さがある分近寄りやすいような、かえって近寄りがたいような…そんな微妙な印象だった。
ただそれは母親でもなければ自分など一生無理だとも思うようになり、何をしても自分に自信が持てず、そんな自分自身を頼りなく思っていた。
だから異性であるだけでなく、何でも本当に誠心誠意を見せれば受け入れてくれる最後の砦のように母親を思っていた。
純粋な母親の神聖性への信仰のようなものだろう。
母親はずっと専業主婦だったがお気楽とはいかず、しばしば学校を休むようになった僕を心配していたように思う。
何度も欠席が続くと担任が家まで来て緊急の三者懇談をやるハメになったこともあるからだ。
家に戻った僕は早々と制服から部屋着に着替えた。
テレビをつけると目ぼしい交通機関が軒並みストップして、高速まで使用禁止になっていると伝えていたのを見た。
(ならもう絶対に今日はないな)と思い、少し安心した。
さっきまであった学校に行かなかった罪悪感が薄れ、お墨付きをもらえたように思えた。
むしろ早朝に出勤した父親さえ帰ってこられないんじゃないかと思った。
それから少しして、母親が家に戻ってきた時、僕を見ても何も言わなかった。
内心では心配していただろうが、僕に直接何かを言う事をはほとんどなかった。
それにその日は雪が凄かったため、それどころではなかったろう。
当時僕は精神科への通院歴があった。
というとまた偏見が出てくるだろうからあまり言いたくはなかったのだけれど、実際にそうだった。
精神的に落ち込みやすくなったり、負担に思うような事があるともう何も出来なくなってしまうのだ。
そのため学校に行かなくなってしばらくしてから医者にかかるようになった。
母が作ってくれたおじやを食べてから薬を飲んだ。
薬自体の作用なのか、あるいは薬を飲んだ事自体による安心感が大きいのか、そうすると本当に落ちつくのだ。
「大丈夫?」
僕の朝食を作って洗濯を室内干ししてきた母が戻ってきて言った。
僕はその間居間の炬燵でずっとぼんやり天井を見ていた。
「う~ん…分からない」
その僕の返事もいつも通りだ。
母親は僕の不登校は病気の影響だと思っている。
僕はどっちかというと不登校が病名を作りだしているのだと思っている。
だから薬が効こうと効くまいとあまり変わらないと思っていたし、実際に分からないとしか言いようがない。
僕の返事を聞いた母は困ったような顔をしていた。
僕と母の間の一線が揺らぎ始めたのはその少し前の事だった。
何度目かの通院から家に帰って少し病気の話をした時に初めて僕は母親に願望を打ち明けた。
その時の空気というか、勢いというかなぜそんな事を言い出せたのかは何となくとしか言いようがない。
本当にごく自然に、ひとり言のように言えた。
「分からない。けど、そうしたら何かが変わるかもしれない」と僕は言ったけど、母は何も言わずに眉をひそめていた。
その前に落ち込んだ時は「死にたくもなる」と言っていたからどちらかといえばその方が母親としては深刻に受け止めていたのかもしれない。
僕の何気ない言い方が単なる性的な意味だけで母親を求めている訳ではない事が伝わったのだと思う。
だから母親は安易な風俗など他人に頼る事も僕に勧められなくなったのだろう。
(見た通り明らかに未完です)
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今はアパートと新興住宅地が立ち並んでいるが、実家の裏手は僕が子供の頃は何もなかった。
住民はみんな昔から住んでいる人ばかりの地域だったので、家の近所は畑や水田、何も使われていない空き地が広がっており僕が小さな頃は本当に何もなかった。
夏になると夏草が伸びてきて裏の塀にかかってきたりしたが、地主が時折草刈りをしていたらしく、荒れっぱなしになることもなかった。
昔は実家がその空き地に小さな畑のため土地を借りていたため、僕が小さな頃は母親とよくその家の裏の空き地で趣味程度の畑仕事の手伝いをしたりした。
家の一番裏側が僕の部屋だったため、学生時代は部屋の窓からずっと窓からその畑が見えていた。
吹きっ晒しの土地だったからか、隙間風なのか、冬になるとひどく冷える部屋だった。
冬になると畑には霜が降りるので、早朝など窓からの景色は真っ白になり余計に寒々しく思えた。
特に冷え込んだ朝は部屋が凍りつくように布団に入っていても寒いくらいで、毎朝自分が起きる何十分前に入るよう灯油ファンヒーターのタイマーを入れておかないととても起きれなかった。
高校時代の事だったが、僕が当時通っていた電車が大雪で通行不能になった事があった。
これ幸いと思い、寒い駅で待つ必要はないと思ってそのまま踵を返して家に帰った。
その頃はとにかく学校に行きたくなくて仕方なかったので、そうした何かと理由を見つけたは休む事が多かった。
当時実家は同居していた父の母(つまり僕から見た祖母だ)が入院していた。
結果的にそのまま亡くなってしまったため退院する事は叶わなかったが、当時はまだ比較的元気だった。
祖母とは嫁姑で母親と折り合いが悪かったが、現実的に母が世話するしかないため毎日のように病院に行っていた。
その入院していた病院は親切なところでよほど問題行動がない限り看護婦(当時はこの表現がまだ許された)さんがやってくれたため、家族がしなければいけないのは定期的に家から持って行っているタオルや着替えの洗濯くらいだった。
だから僕が帰ってきても母は既に病院に行った後だった。
朝ギリギリまで寝ていたから朝ごはんでも作ってもらおうと考えていたが、すぐに戻ってくるだろうと思った。
その頃…いや、ちょっと前くらいからだったかもしれない。
僕にとって母親は単なる母親ではなくなっていた。
異性として意識していた、というほどではない。
より正確に言えば母親であると同時に異性である、ということを変に意識するようになっていた。
ありていに言えば僕は母親に自分を男にして欲しい、と思っていた。
それは単なる性への好奇心、というだけでなくただの異性と違って気安さがある分近寄りやすいような、かえって近寄りがたいような…そんな微妙な印象だった。
ただそれは母親でもなければ自分など一生無理だとも思うようになり、何をしても自分に自信が持てず、そんな自分自身を頼りなく思っていた。
だから異性であるだけでなく、何でも本当に誠心誠意を見せれば受け入れてくれる最後の砦のように母親を思っていた。
純粋な母親の神聖性への信仰のようなものだろう。
母親はずっと専業主婦だったがお気楽とはいかず、しばしば学校を休むようになった僕を心配していたように思う。
何度も欠席が続くと担任が家まで来て緊急の三者懇談をやるハメになったこともあるからだ。
家に戻った僕は早々と制服から部屋着に着替えた。
テレビをつけると目ぼしい交通機関が軒並みストップして、高速まで使用禁止になっていると伝えていたのを見た。
(ならもう絶対に今日はないな)と思い、少し安心した。
さっきまであった学校に行かなかった罪悪感が薄れ、お墨付きをもらえたように思えた。
むしろ早朝に出勤した父親さえ帰ってこられないんじゃないかと思った。
それから少しして、母親が家に戻ってきた時、僕を見ても何も言わなかった。
内心では心配していただろうが、僕に直接何かを言う事をはほとんどなかった。
それにその日は雪が凄かったため、それどころではなかったろう。
当時僕は精神科への通院歴があった。
というとまた偏見が出てくるだろうからあまり言いたくはなかったのだけれど、実際にそうだった。
精神的に落ち込みやすくなったり、負担に思うような事があるともう何も出来なくなってしまうのだ。
そのため学校に行かなくなってしばらくしてから医者にかかるようになった。
母が作ってくれたおじやを食べてから薬を飲んだ。
薬自体の作用なのか、あるいは薬を飲んだ事自体による安心感が大きいのか、そうすると本当に落ちつくのだ。
「大丈夫?」
僕の朝食を作って洗濯を室内干ししてきた母が戻ってきて言った。
僕はその間居間の炬燵でずっとぼんやり天井を見ていた。
「う~ん…分からない」
その僕の返事もいつも通りだ。
母親は僕の不登校は病気の影響だと思っている。
僕はどっちかというと不登校が病名を作りだしているのだと思っている。
だから薬が効こうと効くまいとあまり変わらないと思っていたし、実際に分からないとしか言いようがない。
僕の返事を聞いた母は困ったような顔をしていた。
僕と母の間の一線が揺らぎ始めたのはその少し前の事だった。
何度目かの通院から家に帰って少し病気の話をした時に初めて僕は母親に願望を打ち明けた。
その時の空気というか、勢いというかなぜそんな事を言い出せたのかは何となくとしか言いようがない。
本当にごく自然に、ひとり言のように言えた。
「分からない。けど、そうしたら何かが変わるかもしれない」と僕は言ったけど、母は何も言わずに眉をひそめていた。
その前に落ち込んだ時は「死にたくもなる」と言っていたからどちらかといえばその方が母親としては深刻に受け止めていたのかもしれない。
僕の何気ない言い方が単なる性的な意味だけで母親を求めている訳ではない事が伝わったのだと思う。
だから母親は安易な風俗など他人に頼る事も僕に勧められなくなったのだろう。
(見た通り明らかに未完です)
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- カテゴリ:母子相姦小説 短編
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