「本屋乗っけてってくれる?」
そう言うと、母はちらと時計を見てから「いいよ」と答えた。
その返事をもらったらすぐに僕は上着を羽織って、出かける準備を済ませる。
昔、僕が学生だった頃によくある事だった。
その書店は家から車で15分ほどかかる隣市にあった。
地元では大きめの書店で周辺にはパチンコ屋やホームセンターもある一応ちょっと栄えている地区だ。
自転車で向かうと4,50分もかかるし、通り道はずっと吹きっさらしで風が強くてしんどいからそうやって母の運転で連れてってもらう事が多かった。
商店街に面した小さな本屋しかない地元と違って、そこなら大抵のものは揃う。
モータースポーツ雑誌やゲーム雑誌、パソコン専門誌とかそういうの。
あの頃はネットが無かったから色々置いてある大きめの書店は貴重だった。
運転してくれた母は車から降りて一緒に店内に入る事はあまりなかった。
大抵は僕だけが店内で10数分見て回っている間も退屈そうに運転席の窓から通り沿いを眺めていた。
軽く空の光でレンズが反射した眼鏡の向こうの母の瞳は分からなかったけれど、何となく何かを考えているようにも見える。
その内に買い物を終えて書店名の入った紙袋を持った僕が車に近づいてくと、ガチャっと助手席のドアを開けて迎えてくれる。
助手席に乗り込んでも大抵母は僕が何を買ったのかとかそんな事を聞いてくることも無くて、車はすぐに家に向けて走り始めた。
あの頃は色々あった。
僕が不登校だった時期もあったし、両親が別居した時期もあった。
その影響もあったと思うけど、母が体調を崩して入院した時もあった。
同居してた祖母が亡くなったのもその時期だったし、父が転職したのもそうだった。
そして母と僕がちょっとした関係を持つようになったのも。
今もよく覚えてる。
その何日か前の夜に両親が派手に言い争いをしてたんだ。
たしかまだ初夏で窓を開けて暑さをしのいでたから、両親の声に重なるように蛙の鳴き声が家に入ってきてうるさかった。
見飽きたような我が家の光景だったけど、息子としちゃやっぱり両親の喧嘩にはうんざりする。
母は父が祖母の味方ばかりすると言う。
けれど父はそんな事ないし仮にそうだとしても何の関係があるんだと喚く。
そんなの見てるとどっちもどっちに思えて仕方なかった。
何だか堪らない気持ちになって、そのまま僕は外に出てしばらく家に戻らなかった。
1時間くらいか近所のコンビニで時間を潰してから家に戻ったら、母が玄関先で待ってた。
両親の喧嘩が嫌で僕が家を飛び出したって思ったのか、ほっとした顔で出迎えてくれたのを見て、何だか僕もほっとした。
家に入ると父も僕の顔を見るために出て来て、やっぱりほっとしたような顔をしてた。
それから両親の喧嘩は徐々に見られなくなっていった。
少なくとも僕の見ている前では止めようってだけだったかもしれないけれど。
母と折り合いの悪かった祖母の死と両親の不仲の改善。
そういう何ていうか変わり目のようなものだったのかも。
何十回となく母に乗せて来てもらった書店の駐車場。
そこで初めて母とキスをした。
無理にしたんじゃない。
しようとしたらちょっと母は迷った顔をしてたけど、ぐっと吹っ切るように唇を重ねてきた。
すぐ離されたから時間にしたら1,2秒くらいだったけど、僕は初めてだったし何かちょっと感動にも近い感情があった。
それからその書店にいく度にほんの短い時間キスをするようになった。
僕から仕掛けて母から離れるお決まりの形だけど、しない時も拒まれる時も一度も無かった。
お互い何も言わなかった。
狭い車内で言葉も無くそういう関係になっている事にどうともいえない感覚があった。
何度目かのキスの時、母の胸に触れた事があった。
一瞬驚いたように母は身を堅くしたけれど、それから少しの間そのままにさせてくれた。
けどすぐに我に返ったように車の周囲を見回すと僕の手は引きはがされた。
母との関係は気まずくはならなかった。
祖母の死、父との関係の改善。
表面上は我が家は良い方向に向かってたし、実質的にもそうだったと思う。
ただ母の中でどうしても割り切れない感情があったんだろう。
元々大人しくて自分だけで抱え込むタイプだった母にとって、何らかの捌け口代わりに僕との関係が進んでいったようだ。
そういう母側の事情と僕の中の異性への好奇心とか母を労わる感情と変な形に交錯したんだと思う。
不思議と自宅では一切そういう事は無かった。
そういう風にならなかった、という方が近いかもしれない。
住み慣れた我が家では僕から何かをするような気になれなかったし、母だって受け付けてくれない雰囲気があった。
ある日の本屋帰りの時だった。
交差点の信号待ちでゆっくりブレーキを踏みこんでいく母の膝頭に掌を置いた。
長めのスカートだから肌は膝から下以外見えない。
小さく息を呑んだように見えたけど、母の足の動きは止まっていた。
顔だけを横に振り向いた母は困ったように眉を顰めていたけど、その瞳の色に宿る感情ははそれだけじゃないと分かった。
まるでこうなる事をずっと予感していたようなそんな目だった。
間もなく変わった信号に従って再び正面を向いた母は真正面を見据えていて横目でも僕を見ようとはしなかったけど、何も言わなかった。
何度もキスした事も胸に触れた事も母の寛大さに甘えているつもりだったから、その時初めて母もまた僕を意識している事を知った。
かなり迷いながらスカートの裾からそっと掌を奥に移動させていっても、何も言われなかった。
家に着くまでの短い時間、大きくなってから初めて僕は母のそこに触れた。
下着越しだったからよく分からなかったけれど、汗でやけに湿っている事は分かった。
自宅に着くと母は僕の方を見ずにさっさと車を降りて家に入って行ってしまった。
よく連れて行ってもらった書店の隣はCD屋があったんだけど、その当時は既に潰れてて何もテナントが入っていなかった。
元々書店とは一体のようになっていた扱いだったから、CD屋が潰れても駐車場は共用のままになってた。
書店の駐車場が満車の時はたまにそちらに車を入れる事もあったけれど、基本的には全く使われてない。
母の小さな軽自家用車は最近のボックスカーと違って、後部座席を倒しても狭い空間しか作れない。
小学生の頃にもそうやって後部座席を倒して僕の自転車を無理矢理載せた記憶が蘇ってくる。
昔から良く知っている軽の低い天井と窮屈な車内、嗅ぎなれたビニールシートの匂い。
見慣れた車内にはやはり見慣れた母が居た。
よく見た服を着て、よく見た眼鏡を掛けていて。
そして母は今までに見た事のないほどに両足を大きく広げて僕を見上げていた。
僕はゆっくりと母に下半身を重ねるようにゆっくりと近づいていく……。
馬鹿みたいに思えるかもしれないけど、どんなものでも初体験は男にとって本当に大きな出来事だ。
大抵は一つの美しくもほろ苦い思い出となり、いつまでも心の中で鈍く輝き続ける。
実際その日の事はよく覚えてる。
大通りとの間のフェンスの錆びや駐車場の路面から雑草が伸びてた事や閉鎖したCD屋の店内には何も無くて闇が広がってた光景や。
曇っていた空やじっとりと蒸し暑かった事や、後部座席に転がっていたビニール袋や、解かれた母の髪が広がって昆布のようだった事や。
大人しくて言葉少ない地味な母が珍しく饒舌で思ってたよりも明るかったことも。
「不倫しちゃった……」
そう言う母はどこか少しおどけたような声だった。
僕を見る目には後ろめたさもあるが、どこかこの事態を一緒に面白がっているようにさえ見える。
「何いってんの」
僕はそういうのが精いっぱいだった。
母であり女、分かっていたはずだけれど母が吹っ切れたように女を隠さない事に僕は戸惑っていた。
嫌なんじゃなくて、気恥ずかしいような感覚だった。
野暮ったい眼鏡にほうれい線のある口元、いかにもオバサン然とした体形なのにそれでもどこか母は綺麗に見える。
初体験の相手になってくれたって感覚もあったかもしれないけど、実際母は少し綺麗になったんだろう。
端的に言えば、女性ホルモンが活発化して……みたいな事かもしれない。
「…どう?気持ちよかった?」
普段の母なら絶対に聞いてこない台詞。
久しぶりに華やいだような感覚が言わせているのかと思った。
仕方なく曖昧に頷くと、母はまた小さく笑った。
よっぽど若さとか女らしさへの自信が失われたのかな。
言わなかったけれど。
それからは母とはラブホテルに行くようになったから、その店の駐車場でわざわざするような事はなかった。
けどそれでもその店に来るたびに初体験の記憶は何度でもいつまでも蘇ってきたものだ。
今、町の本屋が無くなってるという。
みんなアマゾンで買うからだって言うけど、単純に本自体が売れなくなってる事も大きいらしい。
そういうニュースは何度も目にしてるし、実際に町から書店が消えていくのを何度も見てきた。
何年かぶりにその書店を訪ねたのは母の葬儀の翌日だった。
空にたなびく火葬場の煙を見ている内にあの日の事を思い出して、行ってみようとちょっとした気まぐれが起きたんだ。
他の車が一台も止まってない駐車場に嫌な予感を覚えた。
店の見慣れた自動ドアの顔の高さくらいに張り紙がしてあった。
「長らくご愛顧頂きましたが‥‥」
閉店時の決まり文句。
自動ドアの向こう側の店内は既に棚も撤去されていて、ガランとしていて奥にはただ闇が広がっている。
張り紙自体が黄ばんで少し古くなっているから、閉店したのは最近の事じゃないんだろう。
何年も来ていなかったから、ちょっとした責任を感じてしまう。
あの当時よく買ってた雑誌ももう何年も買っていない。
そういえば雑誌自体もう無いかもしれない。
しばし張り紙をぼんやりと眺めながら、とりとめのない事を考えていた。
多分ここに来ることは二度とないんだろう。
駐車場を出る時にもう一度店を振り返ったけど、やっぱり明らかに潰れていた。
何か言葉にならない寂しさを感じながら、車を出す。
隣の元CD屋はとっくに更地になっていた。
完
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